タンザニア広告代理店の思考

Trickster社という広告代理店をやっています。あくまで個人の見解です。

価値基準と損得勘定

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自分自身、可愛げのない子どもだったと思う。(見た目は天使そのものだったが。)

 

小学生の低学年だったか、ポケモンに夢中だったときも、ジムリーダーよりもその後出てくるそこらへんのトレーナーのほうが強いことにとても違和感を抱いていたし、そのうえでそれもゲームを成立させるためにしかたない要素と受け入れて素で楽しんでいたと思う。

 

 

 

人の意思決定は意外と合理性に基づいているものではない。

 

 

スポーツジムに通っているとよく思う。

車で移動してジムで走るし、重たいものを日々持たないように発展してきたのにジムで辛い思いをして重たいもの持ちあげていて、なんだか滑稽ともいえる。

 

ギャンブルの類もそうで、お金は減るのは明白なのだが、吸い寄せられるように足繁く通うこともある。

 

これって生産性もないし無意味だよね?という議論がしたいわけではなく、むしろ逆。

 

ジムに行ってくたくたになったあとにサウナを浴びるのが楽しみだし、カジノで酔っ払いながらちょっとした非日常を感じるのが楽しかったりするのである。

身体を鍛えること、お金を増やすことではないところに実は動機がある。

 

計算に基づくような合理性ではなく、自分自身の価値基準に沿って行動をしているのである。

 

 

これくらいのことなら、誰しもそういうところあるよな~と、思えると思う。

 

しかし、結局これがすべてだな、と思うわけで。

 

 

せっかく大学でたのに就活しないでアフリカ来ちゃうことも、良い会社就職できたのに辞めちゃうことも、就職せずぷらぷらしたり夢を追っかけたりすることも、すべてその価値基準にブレずに基づいていることが重要で、所謂社会的に定められた合理性に従うことが最も自分らしくない状況だ。

 

だから僕は大学の頃からずっと、キャリアがどうこうとかいう話が面白くないし(論理の積み上げとしては面白い)、よっぽど将来が見えない不安な連中が大好きで、そんなのとつるんでいたし、飲んでいて楽しい。(キャリアどうこうに対する批判ではなく、価値基準やどこに楽しみを覚えるかの違いにすぎない。)

 

 

言うは易いが、学生の頃よりは少しかじった程度に世の中を知り、なるほど自分らしくいるということは実はとても難しいというか、勇気がいることなのだと知った。

 

例えば僕自身は一流企業に入った友人たちに心の底でどう思われていたとしても気にしない。(そんなやつらの思うこと関係ねー!じゃなく、普通に飲んでいじられたりしても気にしないうえにそれが心地いいくらい)

 

しかし、例えば僕の両親が近所や親戚におたくの次男はどうなのよ~、と言われてしまいメンツが潰れてしまうこともあるだろうが、それはまったく本意ではない。(実際はうちの親はそんな風に言ってこないし、たぶん吸収したうえで、褒めていたよ、とかに変換すらしてくれている。)

 

自分はいいけど自分の大切に思う人にとってはまたその人の価値基準があるからそれには影響しうるのだな、と。

 

一人で生きているような気がしていたが、実はそうではないのだな、と。

 

でも、だからといって僕が鬱になりながら働いているのをみるよりは活き活きとしている姿を見せるほうが良いと思っている。

この前社員との写真を送ったら楽しそうでいいね~と返ってきたので、なんだか、これでいいのかな、と思えた。

 

 

自分の価値基準で生きるうえでの強敵は“恥”である。

痛いやつに思われるかも、仲間外れにされるかも、という感覚が非常に妨げになる。(仮にヌーディストビーチで解放的になってみたいと思ったとしてもできないのはそれじゃない?ちなみに俺も無理だ。)

 

僕はそんな恥との向き合い方は損得勘定にあると思っている。

 

実のところこれは僕の感覚でもあるが、起業します!とか、社長やらせてもらってまぁす!なんていうのはけっこう恥ずかしい。

なんかそれ自体が目的になっちゃっているやつに見えてしまう恐れも十二分だし、そもそもわざわざ言わなくてもいいことだからだ。

 

でも、やっぱりそれを声高にすることは、メリットは大なり小なり少しあって、一方でデメリットは”恥ずかしい”くらいだ。

 

例えば欲しいものがあって、欲しいというのはなんだか図々しいとか卑しいと思われてしまうかもしれないが、言えば手に入る可能性があって、ダメでも特に失うものはない。(言ってばっかりで嫌われちゃうのはあれだけど。)

 

もうひとつ、”思いやり”も妨げになる。

失望させたくなかったり、傷つけたくなかったり、嫌われたくなかったりと、これは恥以上に厄介である。

 

これは上記の通り、自分さえよければよいと思うのは難しいし、よくないとも思う。

正直、こればっかりはどうにもならないのかもしれないとさえ思える。

 

ただし大切なのは誠実であることだ。

ある種の覚悟をもって、そのうえで素直に誠実に行動をするしかない。

他人を傷つけずに生きるのは無理だし、なのに傷つけるという行為自体は苦しく辛いものである。

だからこそ、それに対して誠実に向き合うこと、筋だけは通すことで成り立たたせる努力をするしかないように思える。

こればかりは自分でもしっくりくる答えらしきものが見つかっていないので、模索中だ。

 

 

話は戻るが、きっと、ジムリーダーにならなかった野良のくせにそこそこ強いトレーナーたちは、ジムリーダーの肩書が欲しかったのではなく、ただ冒険をして見えない世界が見たかったのかもしれないな、と思った。

 

敬愛する故立川談志師匠の名言で、「禁煙するやつは意思が弱いやつだ。」との発言がある。

これは、(それが自分にとって大好きなものだとしたら)という鍵括弧が前に隠れていると都合よく解釈をさせて頂いていて、辞めないと死ぬよと言われても自分らしく生きることのほうが大切だろうが、という意味合いだと思っている。

 

したいことをしたいといい、してほしいことをしてほしいといい、欲しいものを欲しいといい、なりたいものになりたいということが自分らしくあり続ける秘訣じゃなかろうか。

 

気持ちに正直にいきること伝えることは勇気のいることだが、それで拓けるものはあると信じている。拓かなかったとしても、しなかったらどうせなにも起こらないのだから。

 

 

 

・・・こんなことばっかり書いていると話し相手いないのかと心配されちゃいますかね??