タンザニア広告代理店の思考

Trickster社という広告代理店をやっています。あくまで個人の見解です。

中二病のまま生きる

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人は死ぬ間際、人生を振り返って自伝を書くのだと思う。

 

その自伝は、決して履歴書のような事象や経歴の羅列ではなく、なにをしてよかったか、またはなにを悔いているかの感想に近いものだと思う。

 

 

自ら命を絶つ人もいる。

それはきっと、明日また朝がきて目が覚めることに希望がないからなのだろう。

そして、1年後の楽しそうな未来を妄想することすらかなわないのだろう。

 

社会は多数決の論理でできていて、それはリアリスティックな部分で合理性があるのかもしれないが、だからといって最適であるとは言えないし、完璧はないとわかっていても追い求めないといけないものなのだと思う。

 

 

ともあれ、人生というものをゲームだとすると、誰しもいつか死ぬことが一番コアとも言えるルールじゃなかろうか。

そんな単純明快なルール下であるが、死後の世界があるのか否か、これは蓋を開けてみないとわからないという要素がひとつのキーになっている。

 

生前の行いが問われるものであれば、やはり死に向けて生きているといえるし(なにが良い生き方かという定義が重要になってくるの意)、死後は無なのであれば、好き勝手に生きたもの勝ちである。

 

わからないからこそ、生き方に悩む。正解か不正解か、答えはないのだ。

しかし、初述に戻ると、自分自身がこれは良い出来だと思える自伝を書けることはどちらにとっても良いことのように思える。

 

 

大袈裟に書いてみたが、実際は誰しも日々そんなことに悩むわけじゃなくて、もっと短期的に、そして周囲を見渡して比較をしながら生きているのが社会である。

 

 

人は実感以上に、歴史をベースに生きていると思う。

例えば親から学ぶことも、親の重ねた経験(=歴史)に基づいている。親もまた、そのまた親や周囲から学び、その経験はその時々の社会に合わせて微調整を加えられながら世代を超えて共有をされる。

 

そこでなにを学び教えているかというと、どうすると成功するかと失敗するかの2種類しかないように思う。

より成功を大きくしてほしいし、より失敗を小さくしてほしいからである。

 

 

ただし、面白い自伝に失敗はつきものだし、成功の裏には失敗(リスク、といったほうが正確)が必須であることは誰しもがわかっている。

 

そして2種類のうち、失敗しないための教えのプライオリティが高いのが実際であると思う。消極的に考えると、成功が小さくても失敗がないほうが良い(幸せである)と多くの人は考えるからである。

この根源にあるのは愛情ともいえるし、一方で失敗をみたくない自分自身のためとも、どちらともいえるし、同居しているものであると思う。

 

 

誰しもその人にとっての理想というものは持っていて、それはまさにいいことづくめで幸せで、とても都合の良い世界である。

それはきっと物理的には不可能ではない場合が多いが、努力もなにかを失う覚悟も必要で、さらには自分以外のプレイヤーが決まって存在するため、そのコントロールが及ばない。

だからこそ、理想を低くすること(ある種の妥協、と言い換えても良い)でかけるエネルギーも低くしバランスをとる。(高い)理想を追い続けることはそれよりちょっと低くて実現可能なものを捨てないといけないリスクは恐怖なのだ。

だからやっぱり、実現可能ラインの中での最大値を叩き出そうとするし、それは想像最大値よりも低いものもそこにも十分な幸せはあるので、これでよかった、このように生きることは正しい判断であったと確信を得られるし、それを周囲にも心から薦めるというサイクルがあるように思う。

 

 

社会では中二病ともいえる、少年ジャンプの主人公のようなメンタリティーというのは、漫画という作られた創作世界のご都合主義であるからファンタジーにすぎないといわれているが、僕はそんなことないと思っている。(なにを隠そう、重度の中二病患者なのである。)

 

NARUTO自来也大蛇丸を止められなかった過去を顧みて、ナルトにサスケのことを諦めるように言ったこと、それに対して諦めないというナルトがまさにそれだ。(ここだけの話、めっちゃ好きなシーン。知らない人は全巻読み。)

 

大人になる、現実をみるという言葉は少年ジャンプの主人公のメンタリティーを批判することであり、理想の目線を下げることと似ていると思う。(無理なものは無理と受け入れること。)

 

結局どっちなんだいってことではあるのだが、どっちになってもなんとかなるというか、理想なんてものは実は恒久的なものではないし、理想に高いや低いなんて比較に用いる表現を当てはめることもなんかおかしい。

 

長々と無駄に知っている限りの難しい言葉を使って駄文を量産しインターネットの大海原に垂れ流しているのはまるで公に環境汚染のような心苦しさがあるが、それでも結局なにがいいたいかというと、妥協したほうがいい、現実はこうだ、というアドバイスに流されることが、もっとも自伝を面白くなくしてしまう囁きである。

 

大事なのは、失敗してもいいという覚悟と、そし役に立つのはその覚悟を持つために失敗を聞き想像できることである。

 

“たまに例外でそうじゃない人もいるけど”という事実こそが、聞き流してしまいがちなことであるのだが、実はすごく重要で、例外だから自分はそうなりえないと思ったらそこまでなのである。

 

自分の理想がその例外と言われるカテゴリーにある場合、その例外を知ることのほうがタメになる。そして、抽象的にいうとその例外になるためには、理想を手にできるのではないかという考えを馬鹿みたいに信じることができる中二病患者であり続けることなのではないかと思っている。

 

中二病の良いところは、未来のことはわからないのだから諦めない限り叶う可能性ゼロじゃなくね??という根拠のない自信と楽観的かついわゆるドラマの見過ぎお花畑脳である。

いつかはわからないからこそ希望を失わない。その過程がすべて糧になっているという実感が充実感になるからだ。努力は必要だけど、気持ちの良い努力であり続ける。

 

妄想でもなんでも、目指している限りは実現の可能性がある。

それを追い続けなかった人に無理って言われても(不安になるのはわかるが)信じるほどの説得力はない。

 

いつ死ぬかわからないからこそ、人生を懸けて甘いと言われても、この仮説を実証していきたいし、きっとその芯がぶれない限り、良い自伝が書けそうな気がしている。ぶっちゃけ、ここまでくるとブレることのほうがよっぽど怖い。

 

人生経験の浅い若造らしく青いな~、と笑ってもらえると有難い。ただし、独り身らしい考えだな!っていう批判はご勘弁願う。

 

 

PRGの主人公に自分の名前をつけたとしても、それはもっと俯瞰で意思決定をしているように、自分自身もコントローラーで操りながら生きていくのが楽しいのではないだろうか。

 

自分を幸せにするのはいつだって他人だけども、その幸せを呼び込む環境を作るのは自分自身である。

 

 

エモ失礼しました。