タンザニア広告代理店の思考

Trickster社という広告代理店をやっています。あくまで個人の見解です。

ゆく年くる年

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年越しとは不思議なもので、1年を振り返る機会としてもっとも適した感じがある。

それはなぜか始まりよりも終わりを感じさせる点が、誕生日と大きく異なる感覚があるからのように思う。

 

振り返りと新年の目標と、後者に重きを置いているようでなんとなく振り返りのほうがエモく、“無事に1年を終えた感”が強調されている感じがある。

 

その奥ゆかしさというか詫びというか、寂しさを感じさせるのは、日本では季節が冬の真っ只中故の印象か、もしくは自分がタンザニアの孤独のせいか、知らんけども後者とは認めたく気持ちしかない。

 

 

いままで年の瀬に感慨深く振り返ることをしてこなかったけれど、今日はなんだかそういう気分で。

特別な1年だったからなのか、それとも老け込んでいるのか、これもまた、どうでもいいことだ。

 

 

2018年、有難いことに仕事が充実し、会社の規模拡大、そして自分自身の成長を感じられる充実した1年であったと思う。

今日は週末が誕生日だったスタッフにサプライズケーキを仕込み、そしてみんなに給料を払って終わり、なんだかその平和さに感慨深いものを感じた。

“少しでもタンザニアに、社会に貢献できているんだ。

”なんて自惚れた気持ちはなく(みな他でもやっていけるので)、自己表現の一種として、エゴと言ってしまえばそれまでだけど、いままでその学校になかった部活を立ち上げて一応大会にでられたくらいの、そんな嬉しさがある。

言ってしまえば、まだ大会にでられた、って感じなのだけども。

 

それでも嬉しいことには変わりなく、誰かに褒められたいとかでもないし、僕は僕が主人公のゲームをプレイしているのだから、自分の楽しみ方を貫くので良いと思っている。

 

一方で、給料を払っていてもなんだか100%引き出せていないのではないか、仕事楽しくないかも、などと不安になることもあり、会うのが怖くてオフィス行きたくね~。。って思うこともしばしばある。もっと向き合って頼ることにも慣れていきたいなと思う。

 

 

仕事外のことでも、(といっても仕事もそれ以外も区別はあるが枠組み自体は同じと思っている)自分自身の、変化のある1年だったと思う。

 

自分自身を論破し言いくるめられるくらいの生粋の減らず口だが、それは自分をただ肯定して甘やかしているだけで、その天井というか身の程を知ったような感がある。

 

それでも十分ここまで楽しかったけれど、それこそ天井があり、それ以上を望んだときにその本当が問われるような気がした。

 

楽観的であることは自分の都合の良いように物事が運ぶと期待することではなく、それが期待と異なっても、それでもまだ策はあると思えたり、それともこれもまた良し、と前向きに受け止められるような、そういう覚悟に近いメンタリティーを意味するように思った。

 

苦手なこととかいままで見逃していたこととか、自分に言い訳してやってこなかったこととか、そういうものを克服というか、意外とできるじゃん?むしろ普通に楽しいなおい、って言えるようにしていこうと思います。

 

そういう多少の無茶というか、思っているキャパ以上のことに手を伸ばすことが、楽しく生きる秘訣っていう仮説を証明できたらいいなというのがいまの心境。

 

 

年を重ね、成長したようで、大人になっているようで、方向的には子供に戻っているような気がして、しかもそうあり続けることの難しさも感じている。

 

わがままも迷惑も、かけることのほうが年々嫌になって、次第にそれだったらそれをしないほうに天秤が傾いている。

それが大人になるっていうことのように自分も思っていたけれど、自分の目指す大人像は逆で判断基準を自分の感覚で持つことで論理的社会的であるかどうかでもないように思えている。

大人になれよ、という人もいるけれど、わりかしみんなできてることだからそんな難しくもなさそうで、別にいつでもなれそうなので、あまり気にすることもない。

 

抗ってでも、自分らしく、一見アウトローのようで実は王道を、少年ジャンプくらい熱く、自分しか正解としか思っていないくらいの物語を体現していけたらいいな、と中二病患っていけたらと思います。

 

 

ということで、益々、ご迷惑おかけすることもあるかと思いますが、今年もよろしくお願いします。

こちらも覚悟と信念をもって、その意志を貫いていきたいと思いますので。

 

 

新年だけに。

 

 

価値基準と損得勘定

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自分自身、可愛げのない子どもだったと思う。(見た目は天使そのものだったが。)

 

小学生の低学年だったか、ポケモンに夢中だったときも、ジムリーダーよりもその後出てくるそこらへんのトレーナーのほうが強いことにとても違和感を抱いていたし、そのうえでそれもゲームを成立させるためにしかたない要素と受け入れて素で楽しんでいたと思う。

 

 

 

人の意思決定は意外と合理性に基づいているものではない。

 

 

スポーツジムに通っているとよく思う。

車で移動してジムで走るし、重たいものを日々持たないように発展してきたのにジムで辛い思いをして重たいもの持ちあげていて、なんだか滑稽ともいえる。

 

ギャンブルの類もそうで、お金は減るのは明白なのだが、吸い寄せられるように足繁く通うこともある。

 

これって生産性もないし無意味だよね?という議論がしたいわけではなく、むしろ逆。

 

ジムに行ってくたくたになったあとにサウナを浴びるのが楽しみだし、カジノで酔っ払いながらちょっとした非日常を感じるのが楽しかったりするのである。

身体を鍛えること、お金を増やすことではないところに実は動機がある。

 

計算に基づくような合理性ではなく、自分自身の価値基準に沿って行動をしているのである。

 

 

これくらいのことなら、誰しもそういうところあるよな~と、思えると思う。

 

しかし、結局これがすべてだな、と思うわけで。

 

 

せっかく大学でたのに就活しないでアフリカ来ちゃうことも、良い会社就職できたのに辞めちゃうことも、就職せずぷらぷらしたり夢を追っかけたりすることも、すべてその価値基準にブレずに基づいていることが重要で、所謂社会的に定められた合理性に従うことが最も自分らしくない状況だ。

 

だから僕は大学の頃からずっと、キャリアがどうこうとかいう話が面白くないし(論理の積み上げとしては面白い)、よっぽど将来が見えない不安な連中が大好きで、そんなのとつるんでいたし、飲んでいて楽しい。(キャリアどうこうに対する批判ではなく、価値基準やどこに楽しみを覚えるかの違いにすぎない。)

 

 

言うは易いが、学生の頃よりは少しかじった程度に世の中を知り、なるほど自分らしくいるということは実はとても難しいというか、勇気がいることなのだと知った。

 

例えば僕自身は一流企業に入った友人たちに心の底でどう思われていたとしても気にしない。(そんなやつらの思うこと関係ねー!じゃなく、普通に飲んでいじられたりしても気にしないうえにそれが心地いいくらい)

 

しかし、例えば僕の両親が近所や親戚におたくの次男はどうなのよ~、と言われてしまいメンツが潰れてしまうこともあるだろうが、それはまったく本意ではない。(実際はうちの親はそんな風に言ってこないし、たぶん吸収したうえで、褒めていたよ、とかに変換すらしてくれている。)

 

自分はいいけど自分の大切に思う人にとってはまたその人の価値基準があるからそれには影響しうるのだな、と。

 

一人で生きているような気がしていたが、実はそうではないのだな、と。

 

でも、だからといって僕が鬱になりながら働いているのをみるよりは活き活きとしている姿を見せるほうが良いと思っている。

この前社員との写真を送ったら楽しそうでいいね~と返ってきたので、なんだか、これでいいのかな、と思えた。

 

 

自分の価値基準で生きるうえでの強敵は“恥”である。

痛いやつに思われるかも、仲間外れにされるかも、という感覚が非常に妨げになる。(仮にヌーディストビーチで解放的になってみたいと思ったとしてもできないのはそれじゃない?ちなみに俺も無理だ。)

 

僕はそんな恥との向き合い方は損得勘定にあると思っている。

 

実のところこれは僕の感覚でもあるが、起業します!とか、社長やらせてもらってまぁす!なんていうのはけっこう恥ずかしい。

なんかそれ自体が目的になっちゃっているやつに見えてしまう恐れも十二分だし、そもそもわざわざ言わなくてもいいことだからだ。

 

でも、やっぱりそれを声高にすることは、メリットは大なり小なり少しあって、一方でデメリットは”恥ずかしい”くらいだ。

 

例えば欲しいものがあって、欲しいというのはなんだか図々しいとか卑しいと思われてしまうかもしれないが、言えば手に入る可能性があって、ダメでも特に失うものはない。(言ってばっかりで嫌われちゃうのはあれだけど。)

 

もうひとつ、”思いやり”も妨げになる。

失望させたくなかったり、傷つけたくなかったり、嫌われたくなかったりと、これは恥以上に厄介である。

 

これは上記の通り、自分さえよければよいと思うのは難しいし、よくないとも思う。

正直、こればっかりはどうにもならないのかもしれないとさえ思える。

 

ただし大切なのは誠実であることだ。

ある種の覚悟をもって、そのうえで素直に誠実に行動をするしかない。

他人を傷つけずに生きるのは無理だし、なのに傷つけるという行為自体は苦しく辛いものである。

だからこそ、それに対して誠実に向き合うこと、筋だけは通すことで成り立たたせる努力をするしかないように思える。

こればかりは自分でもしっくりくる答えらしきものが見つかっていないので、模索中だ。

 

 

話は戻るが、きっと、ジムリーダーにならなかった野良のくせにそこそこ強いトレーナーたちは、ジムリーダーの肩書が欲しかったのではなく、ただ冒険をして見えない世界が見たかったのかもしれないな、と思った。

 

敬愛する故立川談志師匠の名言で、「禁煙するやつは意思が弱いやつだ。」との発言がある。

これは、(それが自分にとって大好きなものだとしたら)という鍵括弧が前に隠れていると都合よく解釈をさせて頂いていて、辞めないと死ぬよと言われても自分らしく生きることのほうが大切だろうが、という意味合いだと思っている。

 

したいことをしたいといい、してほしいことをしてほしいといい、欲しいものを欲しいといい、なりたいものになりたいということが自分らしくあり続ける秘訣じゃなかろうか。

 

気持ちに正直にいきること伝えることは勇気のいることだが、それで拓けるものはあると信じている。拓かなかったとしても、しなかったらどうせなにも起こらないのだから。

 

 

 

・・・こんなことばっかり書いていると話し相手いないのかと心配されちゃいますかね??

 

中二病のまま生きる

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人は死ぬ間際、人生を振り返って自伝を書くのだと思う。

 

その自伝は、決して履歴書のような事象や経歴の羅列ではなく、なにをしてよかったか、またはなにを悔いているかの感想に近いものだと思う。

 

 

自ら命を絶つ人もいる。

それはきっと、明日また朝がきて目が覚めることに希望がないからなのだろう。

そして、1年後の楽しそうな未来を妄想することすらかなわないのだろう。

 

社会は多数決の論理でできていて、それはリアリスティックな部分で合理性があるのかもしれないが、だからといって最適であるとは言えないし、完璧はないとわかっていても追い求めないといけないものなのだと思う。

 

 

ともあれ、人生というものをゲームだとすると、誰しもいつか死ぬことが一番コアとも言えるルールじゃなかろうか。

そんな単純明快なルール下であるが、死後の世界があるのか否か、これは蓋を開けてみないとわからないという要素がひとつのキーになっている。

 

生前の行いが問われるものであれば、やはり死に向けて生きているといえるし(なにが良い生き方かという定義が重要になってくるの意)、死後は無なのであれば、好き勝手に生きたもの勝ちである。

 

わからないからこそ、生き方に悩む。正解か不正解か、答えはないのだ。

しかし、初述に戻ると、自分自身がこれは良い出来だと思える自伝を書けることはどちらにとっても良いことのように思える。

 

 

大袈裟に書いてみたが、実際は誰しも日々そんなことに悩むわけじゃなくて、もっと短期的に、そして周囲を見渡して比較をしながら生きているのが社会である。

 

 

人は実感以上に、歴史をベースに生きていると思う。

例えば親から学ぶことも、親の重ねた経験(=歴史)に基づいている。親もまた、そのまた親や周囲から学び、その経験はその時々の社会に合わせて微調整を加えられながら世代を超えて共有をされる。

 

そこでなにを学び教えているかというと、どうすると成功するかと失敗するかの2種類しかないように思う。

より成功を大きくしてほしいし、より失敗を小さくしてほしいからである。

 

 

ただし、面白い自伝に失敗はつきものだし、成功の裏には失敗(リスク、といったほうが正確)が必須であることは誰しもがわかっている。

 

そして2種類のうち、失敗しないための教えのプライオリティが高いのが実際であると思う。消極的に考えると、成功が小さくても失敗がないほうが良い(幸せである)と多くの人は考えるからである。

この根源にあるのは愛情ともいえるし、一方で失敗をみたくない自分自身のためとも、どちらともいえるし、同居しているものであると思う。

 

 

誰しもその人にとっての理想というものは持っていて、それはまさにいいことづくめで幸せで、とても都合の良い世界である。

それはきっと物理的には不可能ではない場合が多いが、努力もなにかを失う覚悟も必要で、さらには自分以外のプレイヤーが決まって存在するため、そのコントロールが及ばない。

だからこそ、理想を低くすること(ある種の妥協、と言い換えても良い)でかけるエネルギーも低くしバランスをとる。(高い)理想を追い続けることはそれよりちょっと低くて実現可能なものを捨てないといけないリスクは恐怖なのだ。

だからやっぱり、実現可能ラインの中での最大値を叩き出そうとするし、それは想像最大値よりも低いものもそこにも十分な幸せはあるので、これでよかった、このように生きることは正しい判断であったと確信を得られるし、それを周囲にも心から薦めるというサイクルがあるように思う。

 

 

社会では中二病ともいえる、少年ジャンプの主人公のようなメンタリティーというのは、漫画という作られた創作世界のご都合主義であるからファンタジーにすぎないといわれているが、僕はそんなことないと思っている。(なにを隠そう、重度の中二病患者なのである。)

 

NARUTO自来也大蛇丸を止められなかった過去を顧みて、ナルトにサスケのことを諦めるように言ったこと、それに対して諦めないというナルトがまさにそれだ。(ここだけの話、めっちゃ好きなシーン。知らない人は全巻読み。)

 

大人になる、現実をみるという言葉は少年ジャンプの主人公のメンタリティーを批判することであり、理想の目線を下げることと似ていると思う。(無理なものは無理と受け入れること。)

 

結局どっちなんだいってことではあるのだが、どっちになってもなんとかなるというか、理想なんてものは実は恒久的なものではないし、理想に高いや低いなんて比較に用いる表現を当てはめることもなんかおかしい。

 

長々と無駄に知っている限りの難しい言葉を使って駄文を量産しインターネットの大海原に垂れ流しているのはまるで公に環境汚染のような心苦しさがあるが、それでも結局なにがいいたいかというと、妥協したほうがいい、現実はこうだ、というアドバイスに流されることが、もっとも自伝を面白くなくしてしまう囁きである。

 

大事なのは、失敗してもいいという覚悟と、そし役に立つのはその覚悟を持つために失敗を聞き想像できることである。

 

“たまに例外でそうじゃない人もいるけど”という事実こそが、聞き流してしまいがちなことであるのだが、実はすごく重要で、例外だから自分はそうなりえないと思ったらそこまでなのである。

 

自分の理想がその例外と言われるカテゴリーにある場合、その例外を知ることのほうがタメになる。そして、抽象的にいうとその例外になるためには、理想を手にできるのではないかという考えを馬鹿みたいに信じることができる中二病患者であり続けることなのではないかと思っている。

 

中二病の良いところは、未来のことはわからないのだから諦めない限り叶う可能性ゼロじゃなくね??という根拠のない自信と楽観的かついわゆるドラマの見過ぎお花畑脳である。

いつかはわからないからこそ希望を失わない。その過程がすべて糧になっているという実感が充実感になるからだ。努力は必要だけど、気持ちの良い努力であり続ける。

 

妄想でもなんでも、目指している限りは実現の可能性がある。

それを追い続けなかった人に無理って言われても(不安になるのはわかるが)信じるほどの説得力はない。

 

いつ死ぬかわからないからこそ、人生を懸けて甘いと言われても、この仮説を実証していきたいし、きっとその芯がぶれない限り、良い自伝が書けそうな気がしている。ぶっちゃけ、ここまでくるとブレることのほうがよっぽど怖い。

 

人生経験の浅い若造らしく青いな~、と笑ってもらえると有難い。ただし、独り身らしい考えだな!っていう批判はご勘弁願う。

 

 

PRGの主人公に自分の名前をつけたとしても、それはもっと俯瞰で意思決定をしているように、自分自身もコントローラーで操りながら生きていくのが楽しいのではないだろうか。

 

自分を幸せにするのはいつだって他人だけども、その幸せを呼び込む環境を作るのは自分自身である。

 

 

エモ失礼しました。